小倉百人一首 への入り口
 昭和15(1940)年4月生まれの山本加世さんが作られた、小倉百人一首をご紹介いたします。
 台紙の作成からはじめて、絵を描き、歌を書き入れ、下の句を書く。すべて加世さんお一人の手作業です。市販のものにはない美しさ、細やかさ、温もりを感じます。
 加世さんの孫もひ孫も、もはや百人一首には興味を抱かない世代になっています。このまま朽ちてしまうのはもったいないので、デジタル化して保存しようと思い立ったのです。
 肉筆の絵や文字は、見るだけで心引きつけられるものをもっています。
 皆様、ゆっくりとご鑑賞ください。
解説及び歌意については、

京都書房刊 「解釈と鑑賞 小倉百人一首
著者 文学博士 三木幸信
1962年10月27日 初版発行
1971年12月1日 新定版第26刷発行

から引用いたしました。
小倉百人一首  解説
(一)名称  この『百人一首』は、『小倉百人一首』と呼ばれる歌集である。百人の歌人の和歌を、一首ずつ選んで、百首にまとめた歌集を「百人一首」と呼ぶが、この名をもつものには、ほかに『後撰百人一首』『女房百人一首』『源氏百人一首』などと数多い。けれども、今では、「百人一首一といえば、『小倉百人一首』をさすのが常識とされるほどに、広く親しまれている。それは、撰者とされる藤原定家の、歌人としての名声によるであろうとともに、なによりも、百首の歌そのものが、色紙にのせるにふさわしい、印象ぶかくすぐれたものであったからであろう。はじめは、一定した呼び名はなかったらしく、京都の奥嵯峨、小倉山の山荘の障子(現在のふすま)の色紙形に書かれていたので、「小倉山荘色紙形和歌」「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」などと呼ばれていたが、現在では、ほかの百人一首と区別して『小倉百人一首』『小倉百首』と呼んでいる。小倉・小倉山荘・嵯峨山荘というのは、藤原定家の、嵯峨の小倉山の別荘をさしたものである。

(二)内容  『小倉百人一首』は、奈良・平安・鎌倉の三期にわたる時代の歌人、すなわち、天智天皇から順徳院にいたる百人の歌で、『古今集』から『続後撰集』の勅撰集に収められたものばかりである。それは、定家が、『古今集』から『新古今集』までの八代集から、一八〇〇首近くを抄出、手びかえにしていた「二四代集」から主として選んだらしく、九二首までが、それに収められている。
 勅撰集別には、『古今集』(二四首)、『後撰集』(七首)、『拾遺集』(一一首)、『後拾遺集』(一四首)、『金葉集』(五首)、『詞花集』(五首)、『千載集』(一四首)、『新古今集』(一四首)、『新勅撰集』(四首)、『続後撰集』(二首)となるが、これによって、どの集の歌が好んで選ばれたかの傾向が察せられる。また、歌の部立(分類)からみると、春(六首)、夏(四首)、秋(一六首)、冬(六首)、雑(一九首)、雑秋(一首)、恋(四三首)、離別(一首)、羈旅(四首)にわかれ、「雑」の歌はさておいて、「恋」や「秋」の歌が多い理由は、定家の好んだ妖艶の美を詠うものが、それらに多いからであろう。哀傷・神祇・釈教の歌のないのも、ふすまの色紙に書くものとして適当でなかったためと考えられる。
 このように、各時代にわたる和歌の歌風・傾向を、ひとまとめに言うべきではないが、撰者の好み、撰定の目的などから、ある種の傾向はよみとれる。すなわち、定家の好みから言えば、一般に余情妖艶な歌風のものが多く撰ばれている。定家の和歌における理想は有心美であり、いわば、心有る歌、まことや真情のある歌であり、様式としては、優にやさしく艶なる余情を求めたものにちがいない。晩年において、それが特に強く意識されたようである。けれども、あまりに巧緻妖艶を求めたために、かえって、すなおな感動が失われているとさえ言われるほどだが、すくなくも、定家にとっては、その心構えで撰んだであろうことは、百首の大体の傾向としてみられるだろう。
 また、撰定の目的が、色紙和歌として、ふすまにはられたものだから、多分に装飾的な美しさをもっものが撰ばれたのも自然なことで、それが一つの特色ともなり、後世、新春のかるた遊びとしての遊戯的なものと結びついて、いつまでも親しみ愛されてきた要素ともなっている。
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